水墨に祈る

水墨画に触れるとき、私は墨と紙そして水が織り成す、「現れようとするもの」と

「消えようとするもの」が、互いにうつろう不思議の世界に、引き込まれます。

絵画という一編のドラマの中で、白と黒の無数の墨色が、互いに引き立て合い共存

している姿。「白い紙の素地」は光として墨色と混じわり、限りない広がりを見せてくれます。

また他方「墨色の素地」は陰として「しろのかたち」を引き立て輝かせていきます。

限りなく光に近い白と、限りなく暗黒に近い闇が、互いに主体となり客体となりながら、

湿潤に満ちたドラマを完成してゆきます。

そしてこの両者の関係を優しく包含しているのが、水の存在であり、一つのこのドラマの

重要な立役者でもあります。終演とともに一切の存在を消し去る潔さが実に心地良く

思われます。

このような安らぐ素地達でいったい何を表現しようとしているのでしょうか。

人はあらゆるものの存在の尊さを知る時、出会いの「よろこび」と「もののはかなさ」を

体感いたします。生まれては、また消え行く輪廻の連鎖に、大いなる宇宙の道理を

否応なく教えられていきます。そして見えない世界の大きな存在を知り、「見える世界」

と「内面とそれを含む外の見えない世界」をもっと学び表現してみたいと願ってしまいます。

墨色にこだわろうとする選択が色相と彩度と取り去り、「ありのまま」そのものが光と陰と

余韻で話しかけてきます。

心がそうであるように、それぞれの物の姿も、見えない世界の気配も、決してひと時たりとも

一定いたしておりません。揺れ動く意識や無意識の限りない広がりを見せる姿なき世界を

表すのは、「かりのかたち」を借りてしか表現できない祈りの世界でもあると感じております。

そしてこの問いかけにやさしく答えてくれるのが水墨画の世界観ではないでしょうか。

「枯れる」「はかなさ」「ひびき」「余韻」といった負を美化し、あらゆる物の神髄に如何に

近づくかを、心がけた省略の美学「負の思想」は自然の中で共に生き、共に呼吸を

重ねる事で滲み出してきた大和民族の、大調和への英知なのでしょう。

「負の思想」の定着の末に根付いた「ともにおわす」という「胸中の山水思想」

これこそ日本独自の「和の山水」表現そのものなのだと思うのですが。 如何でしょうか…

幻夢的な奥深さのある水墨も御存知の通り、生みの親である中国から伝わり、

育ての親である日本において、永年にわたり変遷し、今日の「和の山水」に至る姿に

変化してまいりました。

その根本には「負の思想」に繋がる「もののはかなさ」と「おかげさま」を大切にする

日本人の心の歴史が深く横たわっていると思います。

「形あるもの」だけに価値を求めてきた今日の世界に、見えないもの、もの言わぬものを

尊ぶ日本の文化に光を当てる時が、今こそ来ているのではないのでしょうか。

「和の山水」の単純にして、深厚な湿潤作品と精神は人類をもかならずや、やすらぎの

世界にみちびいてくれている大黒柱であると確信しております。

 

水墨文化の「にじみ」「かすれ」「余白」は、時空を超えた心の世界の表現を可能

にしてくれた類のない景色だと思っています。今一度、「見えるもの」と「見えないもの」の

平安なる連鎖を、祈りと共に心を込めて表現したいと願っております。

 

 

合掌